
2011年3月11日 金曜日(平成23年) その時は突然訪れた
午後2時46分
マグニチュード9 最大震度7
予想を遥かに超える大津波が太平洋沿岸を襲った
青森・岩手・宮城・福島の死者、行方不明者は2万人以上に上る
福島県では東京電力福島第一原子力発電所において、炉心溶融や水素爆発などの深刻な災害が発生し、放射性物質が大気中及び海中に放出され、農産物・海産物に甚大な被害をもたらしました
また、近隣の居住者は警戒区域や避難区域に指定されて家を離れなければならないという事態になってしまいました
私の家は仙台市内なので津波被害も原発被害もありませんでしたが、いろいろ経験しましたので、記憶の薄れないうちに書き留めておきたいと思います
わたしは自宅から車で30分くらいのところにある仙台市宮城野体育館(元気ワールド)で友人数人とサークル活動をしていました。
突然の大きな揺れに体育館の壁にへばりついているのがやっとでした。
数メートル先に卓球台が並んでいたので、その下に潜り込みたかったけど揺れが大きくて動くのは無理でした。
小さな揺れになったところで、体育館の職員が来てくれて「今のうちに外に出るように」との指示があり誘導してくれました。
外に出ると体育館に来ていた人たちが大勢いて、皆携帯電話をかけていました。
私も盛岡にいる息子に携帯かけましたが、繋がりませんでした。
結局繋がったのは4日後でした。
芝生の地面は時折大きく揺れ動いていました。
早く家に帰りたかった。
「気を付けて帰ろう」と声を掛けあってそれぞれの車で自宅へ向かいました。
信号はどこも消えていました。
交差点では直進の車が一向に止まってくれないので、右折するのがとても大変で怖かったです。
4号線バイパスはすでに渋滞してノロノロの状態。
余震が何度もあり、心臓はバクバクでした。
途中の道路には大きな亀裂の入ったところや道路が波打っているところ、隆起しているところがありました。
家のすぐ近くまで来たら空が急に暗くなって、前が見えないほどすごい勢いで「雪」が降ってきました。フロントガラスに向かってぶつかってくる感じです。
とても不気味で嫌な感じがしました。
3時間以上かかってようやく自宅にたどり着きました。

一階の屋根
二階の屋根がひどかった
棟は崩れて垂れ下がっていましたが、写真は撮れなかったです

落ちた瓦の一部です(東側)
庭では3メートルも奥で大きな瓦の破片が見つかりました
大きな地震の時に外に出るのは危険です




食器戸棚の扉が開き、茶碗・皿・ガラスのコップなどが落ちて割れた破片が床に飛び散っていました。
冷蔵庫の両開きの扉は開き、野菜室と冷凍室の引き出しも開いた状態でした
大型のテレビは留めてあったので無事でした。トイレや部屋の壁紙が剥がれたりよれたり(写真なし)していました。
お風呂場の扉は歪んだせいで開きませんでした。
壁も一部が剥がれ落ちたり、柱との隙間ができていたりと、いろいろなところに被害が出ていました。
●すべての水道の蛇口を全開にした
宮城県沖地震を経験した人から聞いていたことを思い出して実行した。
大きな地震のあとは必ず断水になる。
すぐなら出るはずだからあらゆる入れ物に水を溜めて置いた方がいいということでした。
水は始め勢い良く出ていました。
風呂桶はもちろんのこと、キッチンの水道からはバケツや鍋ややかんなどに水を溜めた。
水の出はすぐにチョロチョロとなり、完全に止まってしまった。
電気・水道・ガスのライフラインはすべてSTOPした。
●避難用品を点検した
避難用品は玄関脇のプラスチックの箱に準備してあったが、何せ3年以上前に用意していたものなので、中身は忘れている。
市販の持ち出し袋(リュックサック)も買ってあったので、取り敢えず懐中電灯を取り出す。
単一の電池がリュックの中になかった。
予備の電池を調べてみると単一だけなかった。
避難袋の中に電池が入っていないのはひどいと思った。
結局 避難袋で使ったものは かんぱんの缶詰くらいで、ラジオもあったけれどちゃちなもので、普段使っていた携帯ラジオを使った。
寝床で本を読むために買ってあった小さなLEDのスタンドがとても役立った。
スタンド式なので食事のときにはテーブルに置けるのが便利でした。
トイレに行くときなども夜は本当に真っ暗闇でこれを持たないと行かれません。
カセットコンロの新品とボンベも6本ありました。
このカセットコンロがなかったらご飯も食べられないし、お茶も飲めませんでした。
おじやや野菜炒め、味噌汁も作ることができました。
電気が通るまでの4日間は大活躍でした。 一番ありがたい存在だったかもしれません。
主人は会社から自転車で1時間かけて帰ってきました
連絡が取れず心配していましたが、夜7時過ぎに無事帰宅し、ホッとしました
会社ではロッカーなどが倒れて片付けるのが大変だったそうです
会社の向かいにあるDocomoの高層ビルはしなるように大きく揺れていたと言っていました
3月になっても朝晩の冷え込みは厳しいです
暖房器具が使えないので、セーターとダウンを着て寝ました
そして寝た場所は 食卓テーブルの下です
余震が何度もあって身を守るところでないと安心して眠れません
テーブルが割と大きかったので安心して眠ることができたのは良かったです
夜になって外を見ると灯りが全くなく暗黒の世界になっていました
まるで死んだ町、初めて見る光景に不安でいっぱいになりました
●水
トイレを流すためには小さいバケツ1杯分くらいの水が必要だと知った
風呂桶の水をトイレ用に使ったのですが、徐々に減っていき、このままだと足りなくなると思い、雪が降ったときに庭の雪をかき集めて風呂桶に運んだりもした
(以外にも雪が溶けなくて役にたたなっかった)
飲み水は足りたけれどそれ以外のトイレや食器を洗うための水がなくなりました
ガソリンが手に入ってから主人の会社に貯水タンクがあるというので、車で数回貰いに行きました
●お風呂に入れない ●洗濯ができない
高速バスが動いてから盛岡のホテルに2回通いました
お風呂に入るためと洗濯をするため
それと息子に会ってきました
盛岡は被害が少なくライフラインもすぐに復旧していましたので、レストランで食事をし、
スーパーで野菜を買い込むこともできました
●ガソリンがなくなった
ガソリンを手に入れるのは大変でした
スタンドが開業してからずっとどこも長蛇の列(数百メートル)で、3時間~4時間待つのは当たり前 それでも入れてもらえるのは20リットルか30リットル
途中で終わってしまう場合もありました
米10キロが地震の前日に田舎から届いていた
切り餅が買ってあった
飲料水のボトル「アクアクララ」10リットル1個と今までの残りが少しあった
缶詰・ティシュペーパー・トイレットペーパーなどのストックがたくさんあった
調味料(味噌・醤油・油)なども1ヶ月分はあった
暫くして宅急便が使えるようになり、名古屋の親戚からダンボール箱3個に食料(カップラーメン他)やペットボトルの水、紙皿や割り箸などの生活用品がたくさん届きました
また、アクアクララからは10リットルの水をいただき、生協の宅配からも食料品のセットが配られました
■ 電気 3月15日 地震から4日後
■ ガス 4月3日 地震から24日後
■ 水道 3月30日 地震から20日後
電気が一番早く復旧し、毎日テレビで被害の模様を見ていました
ガス・水道の復旧はかなり遅れ、風呂に入れない、洗濯ができないのが不便でした
●市役所に被害届を出す
市役所には何回通ったことか
いつも車は道路に列を作っていて駐車場に停めるためにもかなり待たされ、中でも待たされました
●4月7日11時32分 最大の余震震度6強があった
2階で就寝中に震度6強の地震でした 2階ごと吹き飛ばされるのではないかと思うほどで、ジェットコースターに乗って振り回されているようでした 私としては3・11よりも怖かったです
震度5クラスの地震は何度も経験しているし、今回の余震でも何度かありました
震度5と震度6では雲泥の差、比べ物にならないです
●6月初めから屋根他の修理が始まり7月に終了
瓦は懲り懲り トタン屋根に替えました


お寺はひどい有り様で、殆どの墓が全滅
うちの墓石は数メートル下の畑まで落ちてしまっていました
幸い落ちたところが畑の柔らかい土だったので、墓石はそのまま使うことができました
墓の囲いや土台はグチャグチャ、両隣の墓石が崩れ落ちていて誰の墓石なのかもわからないような状態でした
この一角にある墓はすべて別の場所に移動することになりました
同じ寺の敷地内でも地盤の緩いところとそうでないところがあって、うちの墓は地盤が緩い場所にありましたので、被害は大きかったです
檀家の人たちが集まって数回にわたり話し合いがもたれました
お寺の地盤を大規模に工事することになり、檀家の負担も多く、難しい問題もあって落ち着くまでには時間がかかりました
12月末に新しい場所に墓が完成しました
お墓の移動にかかった費用と墓石の修理費用などで約80万円、檀家としてお寺への修理費用が8万円ほどの負担になりました
電気製品が次々に壊れました
石油ファンヒーター
クーラー
給湯器
換気扇
はっきりはわかりませんが、一度にこれほど多くの電気製品が壊れたのも地震の影響ではないかと思います
いつまた大地震が起こるかもしれません
今後の参考になれば幸いです
最後に 亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします
こちらは 東松島市で津波に遭われた知人の体験です
冊子を送っていただいたので載せさせていただきました
大変長い文になっておりましたので省略しているところもありますがご了承下さい
突然地鳴りとともに大きい音を立てて家を揺るがす地震が来た。
その時、私たち夫婦は東松島市野蒜の自宅でテレビを見ていた。
相当強い地震で平成15年にあった東松島市・南郷町・河南町の地下を震源とする震度6強に勝るものであった。
買って間もない薄型テレビが倒れ落ちそうになったので、とっさに私と妻で両側を抑えて転倒を防いだ。
その間に台所では食器類などが崩れ落ちて壊れる音がしていた。
揺れが一時的に収まったので台所に言って見ると足の踏み場もないほど食器類が散乱していた。
それからラジオのイヤホーンを耳に差し込んだ。
「岩手県大船渡市に高さ6メートルの津波が押し寄せている。牡鹿半島の鮎川にも2メートル位の津波がきている模様である」という放送であった。
引き続きラジオの情報を聞こうとしていた午後3時20分~30分であった。
茶の間の東側の窓の空間を通して40~50メートル前方から津波が押し寄せてくるのが見えた。
その津波は高さ4メートルで波頭の上部がシブキをまき散らしながら進んで来たもので、一瞬見た感想では、まるで映画の特撮場面でも見ているような或いは夢でも見ているような感じだった。
とっさに「津波だ!」と叫んで妻の衣服をつかんで2階の階段を登った。
チリ地震津波の経験からものすごい速度で押し寄せてくるということが頭にあった。
チリ津波は、地球の裏側から24時間で塩釜に来た。
ジェット機と同じくらいの速度だ。夢中で2階の踊り場まで避難した。
避難と同時に津波が我が家を襲い、ぶつかってきた。
家は大音響と共に揺れ動いた。
2階の窓から見たものは、荒れ狂うような海水の流れでみるみるうちに踊り場の高さまで達して家が浮き、流され始めた。
踊り場から2階8畳間にいってみることにした。
入り口の戸が半分くらい開いたので中に入ってみた。
すると畳3~4枚が津波によって下の方から押し上げられたらしく立ち上がった
状態になっていて、家具調度品が倒れて、戸棚の物が散乱し、低い部分には海水が入ってきていた。
北側の押入れがある方が海水が来ていない状態で傾いている様子であった。
それで押入れの方に2歩ばかり踏み出した途端に体全体が海水の中に落ち込んだ。
咄嗟に両脇の物を支えに海中に没するのを防いだ。
腕に力を入れ身体を浮かすようにして海水から脱した。と思ったら今度は私の左側に腰掛けていた妻が海水の中に滑り落ち始めた。
妻の後ろ襟をつかんで引き止めた。
妻はほぼ全身が海水に浸かったのだった。
一難を切り抜けたが、今度は8畳間の床が上へ上へと上がり始めた。頭が天井に
ぶつかるようになって、足の踏み台にしていた小さなテーブルに腰を下ろした。
海水は窓の上方まで達し、部屋の中は真っ暗闇になっってしまった。
このとき「俺達もここで死ぬのかなぁ」と独り言のように言った。
幸いに床面が押し上げられるのが止まった。時の流れに身を任せた状態で話も
しないで動きもしない。
ところが突然南の窓の上部から光が入り込んできて無残な状態の部屋が見える
ようになった。
それが少しずつ広がって外の津波が引き始めて海水の水位が下がる状態が続いて、私達のいた8畳間の床面も元の位置まで下がっていた。
8畳間から6畳間へ行くことにした。
入り口の回し戸は家の変形によって開かない。家屋の瓦礫の中に角材が2つ会ったので、これを使ってテコの原理で出入りする程度に開けることができた。
いろいろなものが散乱していたが8畳間ほどではなかった。
このころは夕暮れ時になっていたが、海水は地面がみえるほどに引いていた。
だんだんと暗くなっていく時間でもあり、何とか二人で寝ることを考え始めた。
押入れの上段には寝具が天井まで積まれてあった。
布団を取り出し、押入れ上段に登り休んだ。
しかしこの時問題があった。
私はヘソから下が海水でずぶ濡れだったし、妻は全身が濡れていた。
妻は布団の間にあったパジャマに着替えた。
二人で押入れの布団にくるまった時には真っ暗な夜になっていた。
押入れの中で長く感ずる一夜を明かすときに一番辛かったのは寒さであった。
何せ夜は寒気が厳しく外は雪だったのである。
出入口の戸は壊したので、全く外と同等であった。
氷点下まで下がった夜気も自由な出入りで、特に夜半過ぎから朝方までの寒さは誠に過酷なものがあった。
体全体がまるで音でも立てているように「ガタガタ」と覆う揺れに震えて止まらない。
そのうちに下になっている布団にじわじわと海水がしみ込んできた。
長い長い眠れない時間だった。
この間何回も強弱の余震が続いていた。
遥か遠くのほうで救急車のサイレンの鳴るのが聞こえて世の中大変な状態になっていることが感じられた。
夜が徐々に明けてきて押入れの中から南側の窓を通して外が見えるようになった。
そこに見えたのは1階部分を埋め尽くした木造家屋の瓦礫の山であった。
それに雪が降っていて、その瓦礫の山は薄く雪に覆われていた。
この風景を見て更に寒さが身にしみる感じであった。
すっかり夜が明けた午前8時ごろ、毛布を巻き付けるようにして南側窓まで行ってみた。幸いにこの頃には雪は降り止んで太陽が出てきて、雪が溶け始まっていた。
窓の外に見える景色は私が見たこともないものだった。
私達二人が何処にいるのやら全く見当がつかなかった。
その時遠くの方で人の話し声が聞こえてきたのである。
中年の男性二人が瓦礫を見ながら何か話をしているのだった。
一見して被災者を探している人であることが判ったので、急いで押入れにあった緑色のタオルを持ちだしてそれを振りながら「おーい、おーい」と大声で何回も叫んだ。
二人の男性が瓦礫の中を20メートル位の所まで来たので、「津波で流されてきているので助けて下さい」と話したのだが「救助の専門家を寄越すから」との返事だった。「それでは救助の手配を頼みます」と言った。
「そこの松の木の並んでいるところは運河ですか?」と尋ねたら「そうだ」と言うので幾らか私達のいる場所の見当を確認することができた。
一日千秋の思いで助けを待っているわけであるが、なかなか現れない。
午後2時頃になって制服の自衛官2人が来たのだった。一人は30才過ぎで肩に無線機を装備した幹部らしき自衛官、もう一人は25才くらいの部下らしき若い自衛官であった。
この2人の姿を見て本当に助かったと実感したのだった。
私は幹部自衛官に、妻は若い自衛官に背負ってもらい移動を始めた。
途中沢山話しかけてくれたり、無線の情報を教えてくれた。
仙台の荒浜では300人位の死者が出ているとか、仙台港の製油所のあるところで火災が発生しているとも話していた。
途中にあった野蒜駅は瓦礫でいっぱいのようだったし、仙石線の線路の下の砂利部分が押し流されて線路が30センチくらい空間に浮いた状態のところを飛び越したりしての移動だった。
自衛官も大変だなぁと思った。また、自衛官という組織は絶対に必要だとも思った。
私達が避難したのは、野蒜小学校2階、4年1組の教室であった。
到着してびっくりしたのは校庭内も瓦礫がいっぱいで津波で流された自動車が数十台体育館前に寄せられ、自動車が重なりあっているのだった。
部屋の板の間には段ボールが敷かれ、毛布一枚が敷かれていた。
すでに30人位の被災者が入っていたので、隙間に入って横になった。
そのうちに夜担って寒さが加わってきた。
電灯なし、飲水なしである。
幸い部屋には一つの石油ストーブが置かれて暖がとられた。大いに助かった。
私は僅か4キロメートル足らずの生家である小野に連絡を取りたいので対策室に行ってみた。
すると電話、携帯電話、人による連絡も現在のところではダメだということであった。
そのうちにピンポン玉より少し大きいおにぎりが配られた。
そういえば地震発生して以降何も食っていないのだ。
配られたおにぎりは美味しさを味わうというよりも体力を保つ為という感じであった。
そして2泊3日で食べたものといえば 食パン四分の一、小型の紙コップに入ったワカメと鮭が入ったおかゆが1杯、20センチ角の海苔が一枚、後は被災者が持ってきたものらしいポテトチップ1枚とせんべい1枚、これが全部である。
3日目のことである
対策本部に行ったところ掲示板ができていたのだが、その1枚の紙に息子が書いたと思われるメモが貼られていた。
ペンを借りてその下に「4-1教室にいる」と付け加えた。
そして4日目の昼に息子と会うことができた。
3泊4日の避難所生活を後にした。
小野の生家は屋根瓦が落ちるなどの被害はあったが津波の被害はなかったし、怪我による人の被害もなかったということだった。
ひとまず落ち着く予定にしていた娘のところまで、生家で提供された清酒を飲みながら向かった。
夜の暖かい布団の中はまるで極楽の世界であった。
娘のところではまだ水道が断水で風呂に入ることができなかった。
海水に浸かったままの体を洗いたかった。
そこで、佐沼にいる息子のところへ再避難することになった。
佐沼では水道が出て風呂も沸かしているという。
そして抽選で仮設住宅が当たり、2ヶ月暮らした息子のところから仮設住宅に移った。5月21日に避難生活が終わった。
知人、隣人での死者は夫婦2人共の人10組20人、1人だけの人10人、生死不明の人は約20人に達している。
将来 また「まさか」の震災は必ず襲来するであろう。
備えだけはしておきたい。